小さな自然
雨上がりの水溜りに光が射せば、太陽の角度により水面はキラキラと輝き鏡のように小さな風景を映すだろう。
風に乗り落ち葉が浮かべば、光の反射と透過が織りなす小さな風景が出来上がる。
それはそれで人の手が介在しないまさに身近な自然の風景と言える。
我々の心には日々の生活の中で、足元の些細な変化をも愛でる感情がある。おぼろげだけど心に響き美しいと感じる豊かな感性があるはずだ。
物だけで無くそこに自然の要因が働いて一瞬変化が起きる時、その時こそ、ものの本質は輝きをまし、人は美しいと感じるのだと思う。

透明ゆえ存在が曖昧な硝子、落とせば脆くも粉々に割れてしまう、そんな繊細でおぼろげな物質の中に僕は小さな風景を見出している。薄い硝子の中に光を貯めると、そこには光の変化に微妙に反応する小空間が広がっている。それは硝子という物質だけでは決して完結しない、硝子というフィルターを通し、そこに自然の現象が関わる事で出来上がる小さな世界だ。
雪花硝子を透かして向こう側の世界を見る時、いつもドキドキしてしまう。
美しい何かが見つかるか?自分の想像力が試される瞬間でもあるからだ。

硝子状態の魅力
なぜ非晶質の硝子が、あるきっかけから結晶化を起こすのか?高温高圧な窯の中で、元々は熱力学的に不均衡な物質の分子構造が、より安定方向に組み代わる?そんな理論はあるもののその制御は繊細で奥が深く、僕の頭の中では未だ謎の部分が多い。
硝子転移時の表面張力や粘性、サーマルコンパクションと言った化学的で難解な物質特性は研究者に任せるとして、自然界の法則が及ぼすミクロでファンタジックな世界の中、必然的に繰り返される現象であることに違いは無い。ガラスを作るということは、繊細で不確実きわまりないものを探すことのようで、頭を悩ます事も多いけれど、それにも増して不透明で魅力的な表面の感触、天使の翼のような模様、まるで化石と見紛うほどに自然な肌艶は、未だ僕を魅了してやまない。

「素材が生まれる」
紀元前、古代ファラオの時代から製造され、宝石のように珍重されていた硝子。ときどき砂漠で見つかる古代の硝子は未その輝きを失なってはいない。
朽ちることの無い物質、でも皮肉なことにその特性故、現代社会では安定5品目という廃棄物となり大量に埋め立て処分されるいる実情だ。
未来人が現代の地層を発掘したら、たぶん硝子の地層を発見して、硝子の時代と呼ぶかもしれない。そう思うと楽しい?かも知れないけれど、硝子が好きな人間にとっては哀しい末路のように感じてしまう。硝子のリサイクルは難しい。各々の成分や膨張率の違いから、混ざり合うと再生はほぼ不可能だし、その前に原料の硅素はこの地球上に無尽蔵な程あって枯渇する心配はまず無い。それが硝子リサイクルの進まない所以になっているのだろう。経済のことは良くわからないけれど、産業として不都合な事ばかりだから、作っては捨て作っては捨てを繰り返してしまうんだと思う。
ただ、同じものを作ることは難しくても、新たな素材として再生し、皆に楽しんでもらうことは僕にも出来る。役目を終えた硝子が次のステージで綺麗な姿で蘇り、スポットライトを受け輝いてくれる。 それはエコでもリサイクルでも無くて、硝子のRe born。日本的には素材の輪廻と呼べるかもしれない。
その事をなんて呼べば良いのだろう?いつも考えているけれど、なかなか上手い言葉が浮かばない。言うなれば、硝子にとって第二の生活が始まること。さらにそれは工業的なもので無くて人の生活や感性に寄り添うものでありたいと考えている。自分の作品を時代のアンチテーゼなどとは思わないけれど、それがより美しく、作品の中に時間軸を感じて頂けたなら、ありがたいと思う。